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忍者・百地三太夫

伊賀忍者の中でも、もっとも知名度が高いのはリーダー格の服部半蔵であることは疑いないことでしょう。しかし、服部半蔵は伊賀を出て徳川家に仕えるようになったことで有名になったといえます。そうなると服部半蔵が居ない伊賀を纏め上げていたのは一体誰だったかが気になります。

百地三太夫とは何者か

百地三太夫は、伊賀忍者のリーダー格を勤めた伝説の忍者であるといわれています。生年は永正9年(1512年)、没年は天正9年(1581年)と言われ、室町幕府末期から安土桃山時代という、日本史における一大転換期を激しく生き抜いた伝説の忍者なのです。

伊賀忍者のリーダーとは誰だったのか

講談などフィクションや知識本の類では、伊賀忍者を纏め上げていたのは服部半蔵とされていますが、前述の通り半蔵は徳川家に仕えることになったため伊賀の里とは往来が少なくなっていたようです。そこで登場するのが百地三太夫です。当時の伊賀の里は、どの武将にも付かず、誰の庇護も受けない完全に独立したコミュニティを形成していました。この伊賀の里のリーダーシップをとっていたのが、上忍であった服部家と藤林家、そして百地家なのです。服部家が伊賀の里を去った後は、藤林家と百地家が伊賀の里の運営を行っていたのです。

百地三太夫の功績とは

百地三太夫と言う人物を語る上で外せないのが、「天正伊賀の乱」です。天下布武の名の下に、天下を獲ろうとした織田信長とその息子・信雄と伊賀忍者の戦いがあったのです。伊賀忍者を嫌っていた信長にとって、伊賀の里は目の上のたんこぶであったと言われています。伊賀忍者もまた信長を嫌い、信雄が伊賀国に送り込んだ滝川雄利を追放しています。そして天正7年(1579年)、伊賀の里の不和という情報を掴んだ信雄は好機と見て、信長に無断で挙兵し伊賀へと攻め込んだのです。しかし、信雄の挙兵を事前に察知していた伊賀忍者たちは百地三太夫と藤林長戸守の指揮の下に結束することとなります。伊賀忍者は信雄が伊賀攻めのための拠点として準備していた丸山城を奇襲し、さらに信雄の反撃も押し返したのです。これが「第一次天正伊賀の乱」です。

織田信長に最後まで抵抗した忍者

この信雄の醜態に信長は激怒し、親子の縁を切ることまで考えたと言われています。しかし、この第一次天正伊賀の乱は信長に改めて伊賀忍者への嫌悪を強めさせる結果となったのは否めません。2年後の天正9年(1581年)には、信雄ではなく信長が直々に指揮を執って伊賀に攻め込んだのです。これが「第二次天正伊賀の乱」です。前回は凡将であった信雄が指揮を執っていたからこそ勝てたのですが、名将・信長が相手となるとそう簡単にことは運びません。伊賀の里と、伊賀と協力体制を取っていたはずの甲賀忍者から離反者が出て信長側に情報を漏らしたのです。これによって伊賀忍者は大敗を喫し、最終的には百地三太夫が柏原の城砦へ逃れ、篭城戦を行ったのですが物量の差で押し切られ百地三太夫は多くの仲間と共に最期を迎えたと言われています。残った多くの伊賀忍者は、信長の追っ手から逃れるため各地に散らばり、一部が根来忍者に合流したとも言われています。

百地三太夫の謎

これが、歴史に残っている百地三太夫の足跡です。しかし、百地三太夫には幾つもの謎が存在しています。

百地三太夫とは誰なのか

近年の研究では、天正伊賀の乱で活躍したのは「百地三太夫」では無かったのではないかといわれています。現在では天正伊賀の乱において、伊賀忍者たちを統率していたのは「百地丹波」という人物であったと考えられています。この百地丹波が百地三太夫の祖父で、百地三太夫自身は柏原城陥落から辛くも脱出して伊賀忍者たちと根来に向かったと言う説も存在しています。おそらくは、「百地三太夫」というのは「服部半蔵」と同じく、百地家の頭領が代々受け継ぐ名前であったのではないでしょうか。その為、天正伊賀の乱前後の足取りがはっきりしないのでしょう。

百地三太夫と石川五右衛門の関係

「石川や 浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」という辞世の句を詠ったことで知られる大泥棒・石川五右衛門は、百地三太夫と関係のある忍者であったといわれています。五右衛門は百地三太夫に師事して忍術を学んでいたのですが、ある時百地三太夫の若い奥さんと駆け落ちしたのです。しかも、その後百地三太夫の奥さんを捨てて稼業をはじめたと言われています。石川五右衛門に関しては、実在を示す史料は存在しているものの、何を行ったのかなどが明確に判っていないため百地三太夫との関係は疑わしいところです。

百地三太夫と藤林長門守の関係

伊賀忍者のリーダーシップを取っていた、服部・藤林・百地の三大上忍の中でもっとも謎が多いのが藤林家の頭領である藤林長門守です。服部半蔵は徳川家康に仕えた事で名を残し、百地三太夫は織田信長に抵抗したことで名を残しました。しかし、藤林長門守だけがこの二人と同じ時代に生きていながら何の痕跡も残していないのです。一説には伊賀と甲賀に強い影響力を持っていたとも、第二次天正伊賀の乱で織田側に寝返ったとも言われていますがまったく情報が残っていないのです。近年では、「藤林長門守は百地三太夫と同一人物ではないのか」という説が浮かんでいます。その根拠の一つが「藤林長門守と百地三太夫の戒名が似ているから」と言うものなのですが、戒名が似ることは珍しいことではないため信頼性は低いといえます。もし、藤林長門守が百地三太夫と同一人物であったとするなら、「何のために一人二役を演じていたか」と言うことになります。おそらくは、服部家が伊賀から離れた後、事実上伊賀の里を運営していたのは百地家だったのでしょう。しかし、一極集中による政治と言うものは反発を生みやすいものです。そこで藤林家の存在を作り出し、万が一の場合百地家が断絶することになってもよいようにしたのではないでしょうか?

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