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伝説の忍者

忍者が現代においても人気を集めているのは、その活躍が伝説となった忍者たちの存在が大きいと考えられています。忍者の登場するフィクションにおいては、実在した忍者を下敷きにした忍者は珍しくも無いのです。そういった伝説の忍者は、一体どのような存在だったのでしょうか?

伝説の忍者を追う!

ここで言う「伝説の忍者」は、実在・虚構に関係なく現代にも語り継がれている忍者のことです。なぜなら、忍者の存在は公からは隠されているのが普通で、その存在を証明できる史料が見つかりにくいのです。

忍者が伝説となっていった理由

忍者は後世の人によってフィクションの題材に取り上げられたのが原因となって伝説となっていったと考えられていますが、忍者が存在していた時代に書かれた書籍によって伝説となった者も多くいるようです。徳川幕府による天下泰平の世では、忍者の活躍の場が失われ忍術も衰退していったことがいくつかの史料から伺うことが出来ます。その為、忍者たちは復権と仕官を求めるために「万川集海」などの忍術書を書き、幕府に送ったのです。つまり、現在まで残っている忍術書は一種の履歴書だったのです。当時の忍者たちは何が何でも幕府御用達になりたかったので、誇張表記を行っている部分もあるのではないかとも考えられているのです。

忍者が伝説になるための条件とは

しかし、後世の人が脚色・誇張を行ったからといって簡単に伝説になれるとは限りません。伝説になりうるだけの「何か」が必要なのです。例えば、伊賀忍者のリーダーとして知られる服部半蔵は徳川家康の配下として活躍したと言う事実を持っています。大盗賊と歌われた石川五右衛門は、当時の天下人であった豊臣秀吉の命を最後の目標としたことなどの伝説があります。このように、なんらかの形で歴史に関わっている忍者は伝説となりやすいのです。また、まったく架空の存在であっても出典となるフィクション作品が高い人気を得ていれば、伝説の忍者になる可能性は高まります。

今も語り継がれる伝説の忍者

では、「伝説の忍者」として現代も語り継がれている忍者には、一体どのような人物がいるのでしょうか?

加藤段蔵

「飛び加藤」の異名をとった加藤段蔵は、戦国時代に実在した忍者の中でも伝説的な能力を持っていたと言われています。大きな牛を一呑みにして見せたり、自分の技を笑った見物人を植物の蔓で縛り上げたりといった、エピソードには事欠かない忍者です。加藤段蔵は上杉謙信の元に仕官していたものの、その能力の高さに恐れをなした謙信公によって命を狙われ、謙信公のライバルであった武田信玄に仕官を申し出たものの、段蔵を恐れた信玄公によって処断されたと言う伝説が残っています。

雑賀孫一

雑賀孫一は、紀伊の国を本拠とする鉄砲術に長けた流派・雑賀衆のリーダーを務めていたとされる人物です。雑賀衆の鉄砲の技術は、かつて戦国最強と謳われた武田騎馬軍団を火縄銃の三段射ちで破った織田信長が舌を巻くほどであったといわれています。しかし、この雑賀孫一と言う人物には多くの謎が残っています。「雑賀孫一」と言うのは雑賀衆のリーダーが引き継ぐ名前で、経歴自体も何人かの実在した人物のものを寄せ集めたものであると言われています。

猿飛佐助

猿飛佐助は、真田幸村の配下として活躍したとされている甲賀忍者です。しかし、「真田十勇士」自体が後世の創作であり、佐助自身も戦前の小説「立川文庫」によって確立された人物であると言うのが定説です。佐助のモデルとなった人物として名前が挙げられているのが三雲佐助賢春、伊賀忍者の「下柘植ノ木猿」こと上月佐助であるといわれています。

山本勘助

「甲斐の虎」武田信玄の名軍師として活躍した山本勘助もまた、忍者であったという説が存在しています。山本勘助自身、架空の人物であったと長年信じられてきましたが北海道で発見された「市川文書」でその存在が確認されています。この文書によると、山本勘助は軍師ではなく伝令将校的な立場にあったと推察されています。これらの事実を勘案すると、「兵法に通じていた」+「情報を扱う立場にあった」=「忍者ではなかったのか?」という説に行き着くのは言うまでもありません。この「山本勘助=忍者説」を取り上げたのが、新田次郎による小説「武田信玄」です。

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